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日本の歴史(古事記と日本書紀)

日本の神話とは、七一二年(和銅五)にできた『古事記』と七二〇年(養老四)に完成した『日本書記』とに書かれている神話をさしている。『古事記』と『日本書記』の二つは日本の最も古い歴史書である。

『古事記』と『日本書記』の成り立ち

六七二年に起こった壬申の乱の少し後、勝利した天武天皇は、つぎのような詔(みことのり)をくだした。

「聞くことによると、家々に伝えている帝紀 (皇室家系図)と本辞(古い物語)とは、すでにいろいろの誤りが生じて、本来の姿が失われている、いまのうちにその誤りを改めておかないと、幾年かするうちに、ほんとうの精神が失われてしまうだろう。これこそ国家を治める大本であり、人民を教化する基本であるから、ここに帝紀 をえらび、旧辞(本辞のこと)を尋ねしらべ、偽りを削り、正しいものを定めて、後の世に伝えたいと思う」と、

そこで、天武天皇は稗田阿礼という二十八歳の舎人(とねり)に直接ことばをたまわって、帝皇日継(すめらみことのひつぎ・帝紀 のこと)と先代旧辞(さきつよのふること)を暗記させた。

二・三十年後の元明女帝の代になると、元明天皇は、年老いた阿礼を惜しみ、太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)に「稗田阿礼の誦む(よむ)ところの勅語の旧辞(を撰録して献上せよ」と命じ、『古事記』三巻を書あげた。(古事記序文より)



『古事記』の成り立ちと並行して、天武天皇は、六八一年に大極殿に出御して、川島皇子と上毛野君三千(かみつけののきみちち)など皇族・貴族に命じ、「帝紀 」と「上古諸事」(旧辞(のこと)を記し定めさせることとした。一種の歴史編纂局を設けたのである。

その後の持統女帝の代には、十八の氏族に家記をさしださせるように命じ、『古事記』のできた翌々年(七一四年)に編纂官に追加任命をし、政府の公の記録・寺院の縁起・個人の日記・中国や朝鮮の史書などまで広く集めて編纂が進められた。

七二〇年(養老四)、史局の総裁であった舎人親王(とねりしんのう)は、『古事記』よりもはるかに分厚い、三十巻におよぶ歴史を朝廷に「日本書紀」をさしだした。

これが、『古事記』と『日本書紀』の成り立ちである 。

by maxim0427 | 2011-04-02 15:34 | 日本の歴史(中央公論社)より  

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