人気ブログランキング |

日本の歴史(倭奴国の位置)


倭奴国の位置

金印が北九州の博多湾北部で発見された以上、倭奴国は北九州のどこかであろうか。
『後漢書』の中に、
 「建武中元年(西暦五七) 倭奴国 貢を奉じて朝貢す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武賜うに印綬を以てす」と記されている。

 この記事について日支交渉史として、応仁の乱勃発の前年(一四六六)に禅僧の瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)が書いた『善隣国宝記』や、江戸時代の儒学者松下見林(まつしたけんりん)の元禄七年(一六九四)に刊行された『異称日本伝』にあげている。

 それまでは、日本の国は昔から統一されてたと考えていたが、一七七八年(安永七)に本居宣長が書いた古代外交史「馭戎慨言」(からおさめのうれたみごと)である。
 「これも凡そ一百余国といへる中の一つにて、倭国の極南界なりとあれば、つくし(九州)などの南のかたつかた(辺国)なるべし」と、倭人の国は統一国ではないことに気づいていたのである。

 金印の発見後多くの学者が一致して認めたのは、博多湾の西側にある糸島半島の基部にあたる地であった。三世紀の「魏志倭人伝」に伊都国としるされ、「倭奴国」も「委奴国」もイトと読めるし、金印の出土地とも近い。
 だが、本当に「倭奴国」をイトとよんでよいかどうか、後漢書に「倭国の極南界にあり」という記事との関係と、落ち着かないところがあった。博多湾岸では、とても極南界とは思えないからである。

 この問題も一八九九年(明治三十二)、考古学と日本古代史を結びつけることに大きな仕事をした三宅米吉氏が、「倭奴国」とは「倭の奴国」と読むべきであり、「魏志倭人伝」に「奴国」と記されている国と同じであること、日本書記に儺県(なのあがた)・那津(なのつ)などと記された地、いまの博多(福岡市)のあたりであろうという説を出してから落着した。

 「委」は「倭」は略体で、聖徳太子の「法華魏疏」(ほっけぎしょ)という本のはじめにも「大倭国」とあるべきところを、「大委国」と書いた礼もある。

 「倭国の極南界」と書いてある謎も奴国説をとれば容易に理解される。
 というのは「魏志倭人伝」には二つの奴国があって、一つは博多の奴国、もう一つは邪馬台国の支配圏の最南端とおぼしい奴国である。後漢書を書いた范曄(はんよう)は、光武帝が金印を授けた奴国を後者と考えて、「倭国の極南界」という誤った解釈をそえたのであろう。

 博多平野は東に三郡山地、西は糸島山地で囲まれ、那珂川その他の流域に発達した肥沃な平野である。奴国王は、この平野全体を支配したばかりでなく、玄界灘を越えて、大陸との交通の要所をおさえた王者であったと思われる。

by maxim0427 | 2011-09-04 11:13 | 日本の歴史(中央公論社)より  

<< パンチョスと違う猫 お弁当復活 >>