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カテゴリ:日本の歴史(中央公論社)より( 25 )

 

日本の歴史(魏志倭人伝)

「魏志倭人伝」

およそ二千字にわたって、当時(弥生後期の三世紀ごろ)「倭」といわれた日本歴史・地理および風俗などが、こまごまとつづられている。

「三国志」のうちの「魏志」の「東夷伝」の「倭人条」というのが正式名称
(「三国志」とは、後漢が滅んでのち、魏・呉・蜀の三国が並び立っていた三国時代(二二〇~八〇)の歴史)

撰者:陳寿(ちんじゅ)(二九七年 六十五歳没)


陳寿は、魏の魚ゲンという人が書いた「魏略」という本を参照にし、内容に取捨を加えている。
(陳寿が不要なものとして、捨ててしまった記事、「魏略」の断片として残っているうちにも日本人が「まだ暦を知らず、春の耕耘と秋のとり入れの時を記して、一年一年を数えている」という貴重と思われるものもある。)

「魏志」と「魏略」の記録の材料として主なものは、二四〇年代に少なくとも二度、魏の命をおびて日本に使わされた朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)の役人の実地の見聞とその報告。 それと、日本のほうから、帯方郡の役所、さらには、魏の都洛陽(らくよう)におもむいた使節からの聞き書き。などと考えられるので、記事はかなり実地に即したものだったに違いないのである。

「倭人伝」はただ詳しいというだけでなく、三世紀の中国人が同じ三世紀の日本の状態を記した、同時代資料として貴重な文献である。


「倭人伝」の内容は、・三十に及ぶ倭人の国々への距離や戸数 ・衣食住や習俗・国々を統合した女王国の政治と外交とつづいている。

by maxim0427 | 2011-09-29 22:50 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(三種の神器の起源 2)


<日本書記>
五一二年、継体天皇が皇位につくときも、群臣が「跪いて(ひざまずいて)天子の鏡・剣の璽符(みしるし)を奉った」
六九〇年、持統女帝が皇位につくとき「忌部宿禰(いんべのすくね)が剣と鏡を奉った」

<日本神話>
邇邇芸命の降臨のとき、天照大御神が玉・鏡・剣を授けた。

これらの皇位のシンボルとしての三種の神器の思想が、どのようにして起こったかは、くわしくわからないが、弥生時代の族長の墳墓にみられる三つの宝器と関係があるであろう。
なぜならこの風習は四世紀初頭にはじまる古墳時代に入っても、はじめの一世紀ほど伝わり、この古墳時代のはじめに国家首長としての天皇家の地位が確立したと思われるからである。

剣・鏡・玉の三種からなる一銭とは、宗教的祭祀の具としてもちいられたものらしい。日本書紀の景行紀と仲哀記に次のような場面がある。

・景行天皇の使者を迎えた周芳(すおう)の娑婆(山口県佐波郡)の魁帥(ひとこのかみ)、神夏磯媛(かむなつしひめ)は、
「磯津山(しつやま)の賢木(さかき)、抜(こじと)りて、上枝(ほつえ)には八握(やつか)剣をかけ、中枝(なかつえ)には八咫鏡をかけ、下枝(しもつえ)には八尺瓊(やさかに)(の玉)をかけ、素幡(しらはた)を船舳(ふなのへ)に立て」て服従を誓った。

・仲哀天皇の筑紫の行幸には、岡県主(岡は福岡県遠賀郡)の祖の熊鰐が、
「五百枝の賢木を抜り、もちて九尋の船の舳に立て上枝には白銅鏡(ますみ)をかけ、中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊をかけて」出迎え、伊覩県主(いとのあがたぬし)(福岡県怡土郡)の祖の五十迹もまた、「五百枝の賢木を抜って、船の舳艫に立て、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけて」迎えたという。

これらはおなじ類型の話であるが賢木に鏡と剣と玉をかけて捧げるという一つの宗教的儀礼の形式が、古く九州地方にはおこなわれていたのであろう。そしてその物語が、いわば地方豪族を服従させる場面でえがかれていることも見落とすことができない。これは族長の宗教的祭祀権の委譲を示す場面であったと思われる。

剣・鏡・玉は、族長のシンボルであり、呪術宗教的な祭祀の具であったとおもわれる。この時代の社会では、族長としての資格が単に力や富のみではなくて、マジシャンとしての能力にも大きく依存していたことがわかる。

by maxim0427 | 2011-09-06 12:30 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(三種の神器の起源 1)

国々の遺跡

「後漢書」に「五七年に倭奴国が朝貢した」とある。三世紀ごろの「魏志倭人伝」によると、奴国の西には伊都国があり、伊都国の西には末盧国があって、これらの国々はそれぞれ独立国を保っていたことがある。(一世紀から三世紀まで奴国は続いていることがわかる)

伊都国の位置:博多湾の西を限る糸島半島の基部のあたり。
末盧国の位置:佐賀県の東松浦半島のあたり。
それぞれ30㌔ぐらいしか離れていない近い距離にある国々が、三世紀になってもまだ半独立状態であったとすると、弥生中期の政治集団、「国」の広さは、いまの郡ほどのちいさなもので、それぞれの王を持ち分立していまものと思われる。

奴国王が後漢に朝貢した弥生中期は、中国や挑戦でできた銅鏡や青銅の武器類がさかんに西日本に輸入された時代でもある。

日本には三つの文化圏があった。
①北九州を中心とする西日本の青銅や鏡や剣や鉾の文化。
②近畿を中心とする中部日本の銅鐸の文化。
③青銅器の文化の波及がほとんどなかった東部の日本。

これを一つの目安としてみると、大陸との交渉の門戸の位置を占める西日本、とくにその中心である北九州は、当時の文化の最先進地帯であったことがわかる。

三種の神器の起源

この北九州の弥生中期の文化を特徴づけるのは、いまあげた銅鏡は青銅器の武器類のほかに、墓制では甕棺・箱式石棺・支石墓などであった。
一か所に集まっていて共同墓地的な甕棺遺跡のなかには、一般には幼児を葬るためのものであるが、成年も葬っており、副葬品の豊かさとそのあり方に注目があつまっている。その遺跡は、ちょうど、奴国・伊都国・末盧国などの所在地と、その付近に分布している。

北九州の族長たちの甕棺墓の副葬品には、一つのセットとしての型がある。それは、いま見てきたように、銅剣・銅鉾のような武器類と銅鏡と、そいて玉類である。セットそのものが何らかの意味をもっていることを物語っている。

多くは武器という実用品であったとみられないことはないが、多くは朝鮮からの輸入品で、日本で製作されたものではなかったと見られている。
ところが、弥生後期になって日本人自らがつくりはじめた青銅の剣や鉾は、すべて実用には役立たない広型の武器類であった。

弥生人ももちろん武器をもっていた。弥生中期の甕棺に、攻撃用の鋭利な鉄製の武器を副葬した例もあった。だが、後期の役立たない広型の青銅の武器・鏡・玉のセットは、宝器としてつくったのである。
皇室のシンボルとしての「三種の神器」との共通性である。

by maxim0427 | 2011-09-06 11:51 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(金印の意味)


金印の意味

奴国の王の金印「漢倭奴国王」の印は、もと藩主の黒田家の所蔵となている。
一辺は、二・三センチの純金の方印で、つまみは蛇鈕(だちゅう)といって蛇の形をしている。

この金印は、漢が属国の首長(外臣)にたいして授けていた印の制度に合っているところと、ないところがあるという。

合っているところ
・漢:漢帝がさずけたということの意味
・一辺二・三センチの正方形という大きさが漢の一寸四方に相当すること。
・陰刻になっていること。

合っていないところ
・本来なら、印文の末に『印』『章』などとあるべきところにそれがないところ。
・つまみが亀鈕(きちゅう)であるべきなのに蛇鈕(だちゅう)であること。
・異民族の王なのに、某国王と『国』の字のあること。

このように合わない点があるところから、この金印は偽物だという説もなされてきた。
しかし、近年、雲南省で滇民族(てん)の族長の漢の与えた金印が発見された。
この金印も鈕はやはり蛇鈕であり「滇王之印」という四字の刻文も、漢の外臣にたいする印制と合わないところが多かったところから、金印偽物説の論拠が薄弱であったことを示している。

滇王之印は、この王がなかば王朝の官僚、すなわち内臣であり、なかば外臣でもあることのために、二種の印制を兼ね合わせた独自の印をさずけたのであり、また、奴国王の印は、奴国王が普通の意味の外臣ではなく、漢の皇帝の徳化を破り、朝貢の栄を有するが、しかも皇帝の臣下としては、遇せられない異民族の首長、すなわち、不臣の外臣であったために、独自の印をさずかったのであろうと仮説がたてられる。

by maxim0427 | 2011-09-05 14:10 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(倭奴国の位置)


倭奴国の位置

金印が北九州の博多湾北部で発見された以上、倭奴国は北九州のどこかであろうか。
『後漢書』の中に、
 「建武中元年(西暦五七) 倭奴国 貢を奉じて朝貢す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武賜うに印綬を以てす」と記されている。

 この記事について日支交渉史として、応仁の乱勃発の前年(一四六六)に禅僧の瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)が書いた『善隣国宝記』や、江戸時代の儒学者松下見林(まつしたけんりん)の元禄七年(一六九四)に刊行された『異称日本伝』にあげている。

 それまでは、日本の国は昔から統一されてたと考えていたが、一七七八年(安永七)に本居宣長が書いた古代外交史「馭戎慨言」(からおさめのうれたみごと)である。
 「これも凡そ一百余国といへる中の一つにて、倭国の極南界なりとあれば、つくし(九州)などの南のかたつかた(辺国)なるべし」と、倭人の国は統一国ではないことに気づいていたのである。

 金印の発見後多くの学者が一致して認めたのは、博多湾の西側にある糸島半島の基部にあたる地であった。三世紀の「魏志倭人伝」に伊都国としるされ、「倭奴国」も「委奴国」もイトと読めるし、金印の出土地とも近い。
 だが、本当に「倭奴国」をイトとよんでよいかどうか、後漢書に「倭国の極南界にあり」という記事との関係と、落ち着かないところがあった。博多湾岸では、とても極南界とは思えないからである。

 この問題も一八九九年(明治三十二)、考古学と日本古代史を結びつけることに大きな仕事をした三宅米吉氏が、「倭奴国」とは「倭の奴国」と読むべきであり、「魏志倭人伝」に「奴国」と記されている国と同じであること、日本書記に儺県(なのあがた)・那津(なのつ)などと記された地、いまの博多(福岡市)のあたりであろうという説を出してから落着した。

 「委」は「倭」は略体で、聖徳太子の「法華魏疏」(ほっけぎしょ)という本のはじめにも「大倭国」とあるべきところを、「大委国」と書いた礼もある。

 「倭国の極南界」と書いてある謎も奴国説をとれば容易に理解される。
 というのは「魏志倭人伝」には二つの奴国があって、一つは博多の奴国、もう一つは邪馬台国の支配圏の最南端とおぼしい奴国である。後漢書を書いた范曄(はんよう)は、光武帝が金印を授けた奴国を後者と考えて、「倭国の極南界」という誤った解釈をそえたのであろう。

 博多平野は東に三郡山地、西は糸島山地で囲まれ、那珂川その他の流域に発達した肥沃な平野である。奴国王は、この平野全体を支配したばかりでなく、玄界灘を越えて、大陸との交通の要所をおさえた王者であったと思われる。

by maxim0427 | 2011-09-04 11:13 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(金印の発見)

 金印の発見

 一七八四年(天明四)、北九州の博多湾の真正面の志賀島(しかのしま)( →福岡県福岡市東区に所属する島)村の甚兵衛(じんべい)という一人の農夫が、まったく偶然の機会に「漢委奴国王」の五文字を刻んだ金印を発見した。
 
 甚兵衛はそのとき、島の叶の崎(かなのさき)で、田の溝を改修していたのだが、溝の岸をきりおとしていると、二人で持つほどの大きな石がでてきた。そこで梃子(てこ)で掘り起こすと、この金印があらわれたのである。かれは、それを持ち帰って、兄の喜兵衛に相談したが、兄はさっそくこれを以前に奉公していたことのある福岡の豪商、米屋才蔵(こめやさいぞう)のところへ持って行った。まぎれもない純金で、相当な値打ちのものだ、ということをたしかめて帰ってきたが、そのうちに庄屋の長谷川武蔵がたずねてきて、掘り出しものをすぐに郡代役所へさしだせということになった。そこで甚兵衛は、口上書きをつくって品物といっしょに届けたのであった。

 金印の出土したところは、この口上書によると、志賀島の西南側の叶の崎の崖の下で、いま「金印発見の地」という立札がたっているあたりでった。しかし、この金印については福岡藩の学者青柳種信が記している「後漢金印略考」という本によれば、場所は島の西北の叶の浜となっていて、しかも出土の状態が甚兵衛の口上書とは少し違っている。すなわち、一つの大石の下に三個の石があって、物を囲むようになっており、そのなかから金印が出たというのである。甚兵衛の口上書どおりだと、金印は単独に地下に埋まっていたことになる。種信らの記述が正しいとすると、これはどおやら、あとで述べる石棺や支石墓のようでもある。

by maxim0427 | 2011-07-04 22:17 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(文字に記録された日本―「後漢書」)

「後漢書」に記された日本

 西暦二五年、後漢の光武帝が漢朝を再興したが、後漢はいぜん楽浪郡を根拠地として朝鮮半島を支配し、いわゆる「羈縻(きび)政策」をもって土着民に臨んだ。それは、土着民の族長に候(こう)・邑君(ゆうくん)・三老などの中国の官職をさずけ、かれらを懐柔して治めるという政策であった。土着民にとっては、自分の権威が高まるのと、交易上の特権を得ることができるので、競ってこの後漢の政策にしたがった。

 ところで、光武帝は、この羈縻政策を倭人にもおよぼした。それは五世紀の宋の范曄(はんよう)の書いた「後漢書」のなかに次のように記されている。

「建武中元二年(西暦五七) 倭奴国 貢を奉じて朝貢す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武賜うに印綬を以てす」

すなわち、倭奴国は使者を光武帝の君臨する洛陽の都におくり、光武帝は、これに印綬をさずけたのであった。漢の帝室は、「内臣」とよばれる国内の封建諸侯や官僚たち、「外臣」とよばれる属国の首長らに、一定の規格の印綬をさずけ、それによってかれらの身分と地位を保障していたのであったが、光武帝はそれを倭奴国王にもさずけたのである。

by maxim0427 | 2011-07-03 21:40 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(文字に記録された日本―「前漢書」)

「前漢書」に記録された日本

弥生時代の考古学上の資料は豊富にあるのだが、それだけでは、当時の政治や社会の状態はほとんどわからない。ところが、中国の王朝である秦漢帝国の官撰の史書「前漢書」に次のように記されていることによって、はじめて文字によって弥生中期の日本の状態が簡単ではあるが、正確に記録されたのであった。

 「夫れ(それ)楽浪海中に倭人あり、分かたれて百余国となり 歳時を以て来たり 献じ見(まみ)ゆ」

というものだが、これは、「前漢書」のできた時期からみて、およそ西暦紀元前後の日本の状態を記録したものとみられる。
 
ここに記された「楽浪」とは、漢の武帝が、前一〇八年にはじめて朝鮮半島をその領土とし、四つの郡に分けて支配した、その四郡の一つで、役所にはいまの平壌(ピョンヤン)あたりにあった。その役所へ「倭人」の祖先が定期的に通貢し、そのような接触によって、弥生中期の日本人が、多くの政治集団、つまり「国」に分かれていたことが、漢人のしるところとなったのであろう。

 その後、前漢は滅びて西暦25年、後漢の光武帝が漢朝を再興した。

by maxim0427 | 2011-06-23 18:33 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(神話―成立)

日本神話の成立

「古事記」「日本書紀」の神話は神代史の構想と実際に書き上げられた神話との間には、かなり大きなちがいがある。

 神代史の最初の構想では、天地のわかれ伊邪那岐・伊邪那美二神の国生み天照大御神須佐之男命の誕生、高天原での両神の対立、天の岩戸大国主神国譲り天孫降臨とつついて、地上に降りたった、邇邇芸命が南九州の土豪の娘をめとり、そこで生まれた日子穂穂手命が東進して大和に遷るという形であったと考えられる。

 そこに、大穴牟遅神の英雄神話や、木花之佐久夜毘売の話や、海幸山幸などの、出雲や南九州の民間伝承がとりいれられ、はじめの部分に、中国の天の思想からきた天之御中主神の話が加わったのであろう。

 こうした物語は、日の神を信仰する皇室と、それをいただく大和朝廷が、ほぼ全国の統治者としての地位をかち得た後に、伝えていた諸神話、おこなっていた宗教的・政治的な諸儀礼をもとにして、体系的な物語として構想したものであろう。

 皇室という一つの氏族、大和朝廷という一つの国家の宮廷の神話であり、儀式である。あくまでも支配者の間で伝えられてきていたものであり、宮廷の知識人が頭のなかでこしらえたものではない。皇室は日本民族の一部である以上、日本民族の間におこなわれていた神話や、宗教儀礼と無関係なものではなくてそれが基礎をなしている。
 

by maxim0427 | 2011-06-23 15:13 | 日本の歴史(中央公論社)より  

日本の歴史(神話―海幸山幸)

海幸山幸

 木花之佐久夜毘売が燃えさかる火のなかで生んだのは、火照命(ほでり)(後の隼人の阿多君の祖)・火須勢理命・火遠理命(またの名は天津日高日子穂穂手見命)の三人であった。

 火照命は海幸彦(海の獲物にめぐまれている男。古事記では海佐知毘古)といい、火遠理命は山幸彦(山佐知毘古)といった。山幸彦は兄に幸(獲物をとる道具)を交換しようと乞い、やっと許されて、鉤を得て魚を釣りにいったが、一魚も得られないばかりか、鉤をなくしてしまった。弟は剣をつぶして五百本、千本の鉤をつくり償おうとしたが、兄はどおしてもその罪をゆるさらなかった。

 山幸彦が途方にくれていると、塩椎神(「つち」は精霊。したがって海の霊)が海辺にあらわれ、綿津見(海)の神の宮への道を教えてくれた。その宮には、海神の女(むすめ)の美しい豊玉毘売(すぐれた神霊の宿る女)がいて、従女と水を汲んでいるところであった。姫は山幸彦を恋しく思い、まぐわいして父の海神にかれを紹介した。海神は手厚くもてなし、山幸彦は姫とともに三年の間その宮にいついてしまった。

 山幸彦は、鉤のことを思いだして、海神に訴えると、海神は海の大小の魚どもを召び集めて問うた。すると一匹の鯛がのどに何かが刺さって物が食べられず困っていることがわかった。その鯛ののどを探ると、はたして鉤が見つかったので、これを山幸彦に奉った。海神はさらに、故郷にかえって兄に釣り針を返してもなお聞き入れないときの用心にと呪文を教え、潮の満ちひきを自由にする塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)をさずけた。山幸彦はそれをもらって一匹の和邇魚に乗って故郷にかえった。兄の海幸彦はなおも山幸彦をゆるさなかったが、「攻め戦わば、塩盈珠をだして溺らし、もしそれを愁い請さば(まお)、塩乾珠を出して活かし」と海神から教えられたとおりに兄の海幸彦をさんざんに苦しめたので、海幸彦は降参して「僕は今よりのち、汝命の昼夜の守護人となりて仕え奉らむ」とちかった。その子孫は、いまにいたるまで、その溺れた時の種々の態(わざ)を演じて、絶えず仕え奉っている。

海神の女(むすめ)の豊玉毘売はあとから追いかけてきて、海辺のなぎさに鵜の羽をもって葦草(かや)として産殿を造り、山幸彦の子を生もうとしていた。姫は「佗国(あだしくに)(他の世界)の人は、産むときになれば、本(もと)つ国の形をもって産生(宇)むなり。願わくは妾(あ)を見たまいそ」といって八尋和邇(やひろわに)の姿になった。山幸彦はそれをのぞき見し、驚いて逃げたので、姫は、「これは甚(いと)怍(は)ずかし」といって、子を生みおいたまま海にかえっていった。この御子が天津日高日子波限建鵜葦草葦不合命(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)である。

 日子穂穂手命(ひこほほでのみこと)は、高千穂の宮にすまい、鵜葦草葦不合命(うがやふきあえずのみこと)は、その姨(おば)の玉依毘売を妻として、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)ほか四人の男子を生んだ。



ここで、日本神話は終わり、人の世のこととして、神武東征の物語がはじまるのであるが、邇邇芸命の子である日子穂穂手命のことである。日子穂穂手命=火遠理命(ほおり)についてであるが、火遠理命とは火の神格であって、邇邇芸命=日子穂穂手命=稲穂との関係が深く火の神格とは質が異なるという点。火の神格とは無関係であり、海幸山幸の物語とはもともと関係ないものであると考えられる。
 また、日子穂穂手命が神伊波礼毘古命(神武天皇)と同一人物であったと考えるふしのあることである。神武天皇の別名を神日本磐余火火出見尊(かむやまといわれひこほほでみ)であったとするものもあるし、日本書紀の神武天皇の条の冒頭にもはっきり「神日本磐余彦天皇、諱は、彦火火出見」と書いてあることである。

 すなわち、邇邇芸命を中心とする物語は、日向の高千穂峰にくだったことと国津神の娘をめとって日子穂穂手見命を生んだことであり、その子はヤマトへの東征の主人公であっということ。ことばをかえると邇邇芸命が南九州の土豪の娘とめあって、日子穂穂手見命を生み、その命が九州から大和へ遷る(うつる)という形のものであったと考えれば容易に理解されるであろう。
 海幸山幸の物語で命の次に鵜葦草葦不合命の一代をおくことになり、それまでと、ヤマト遷都の後とを区別することになったという。穂穂手見命のかわりに東征物語の主人公として、神武天皇が生まれたのだと考える。
 また、海幸山幸のはなしは、インドネシアにひろがる話とよく似ており、日本では南九州の隼人(はやと)の伝説であったと思われる。神代史のもとの話にはなく、あとで採用された民間伝承であったと考えられる。

「帝紀」「旧辞」を整理しようとしていた天武朝の十一年(六八二年)に「隼人多く来たって方物を貢す。この日、大隅隼人、阿多隼人と、朝廷に相撲(すまい)す」、持統元年(六八七年)に「隼人の大隅・阿多魁師(ひとこのかみ)など三百三十人に賞賜す」などと日本書紀に記録されており、出雲につたわった大国主神の英雄物語をとりいれたと考えられるところであった。隼人の伝説や芸能も、おなじころの神代史に取り入れられたのだろう。

by maxim0427 | 2011-05-07 22:28 | 日本の歴史(中央公論社)より